久しぶりに書評を頼まれた。書名にあった「魔法」という言葉から弟子の一人が書いた『魔法の人材教育』(幻冬舎経営新書、2017年)を思い出し、どさくさに紛れて紹介しようともくろんだが、紙幅の都合で言及できなかった。残念、またの機会を待つとしよう。今回の活動日誌では、以下に書評を再掲させていただく。
――書評
「魔法」の授業というタイトルに接して、混迷を極める昨今の教育界に必要なのはやっぱり「魔法」なのか、と思った。それほど日常の教育が行き詰っているということなのか。タイトルをよく見ると『企業とつくる「魔法」の授業』(教育同人社刊、2018年)であった。外部からの講師を教室に招聘して、非日常的なイベント的授業でカンフル剤を打ち込むという試みはかなり定着した感がある。子どもたちに「魔法」をかけて日常のマンネリを脱するイベントは時折あってもよいだろうが、やっぱり本流の日常を何とかしないとダメなんじゃないのかなぁ。そん発行な否定的な思いを抱いて本書を読み進めた筆者は、自分がタイトルから想像したことがいかに浅はかだったかを思い知らされることになる。
本書は、企業教育研究会が過去15年間にわたって協力企業とともに学校に出前授業を提供してきた成果を具体的かつ説得的にまとめたものである。2016年度だけでも年間194回、合計1万3千人以上の児童・生徒を相手に展開していたという大規模な実践から選び抜いた事例集である。IoTで変わりつつある「近未来」を疑似体験する授業から脱・いじめ傍観者をテーマとした授業まで16の出前授業が生き生きと紹介され、どのような「魔法」が実現したのかが疑似体験できる。授業に取り入れるネタとして学ぶだけでも、価値があるものばかりだ。
「魔法」というキーワードは、20世紀が映像の世紀だったとすれば21世紀は魔法の世紀だとするメディアアーティスト落合陽一氏の論考に依拠している。第100回記念講演者として招聘し刺激を受け、本会の活動のキーワードとして定着したという。映像の世紀が見る者とつくる者とを分断し、現実と虚構を分け隔ててきたこととは対比的に、魔法の世紀では両者が混在し、なぜそうなったのかが理解できないモノに心が動かされていく。
まるで魔法にかけられたような環境の中で我々は生きているし、そういう世界を生きていく子どもたちを育てることが求められている。「まやかし」とか「こどもだまし」のような「魔法」の用法とは対極にある本質論が語られている。そうか、我々は好む好まざるにかかわらず、そういう時代を生きているんだ。そういう自覚のもとで、ブラックボックスに魅せられながらも思考停止しない子どもを育てていくという使命が与えられていると知った。
でもどこから手を付けたらよいのだろうか。一つの糸口が授業の日常に子どもたちのココロを揺さぶる非日常を組み込んでいくことだと本書は教えてくれている。映像の世紀では学校の授業の日常そのものが魔法のような輝きを放っていた。相対的な輝きが失われた今、学校に新しい風を持ち込むことで輝きを取り戻そう。「1回の授業で1%の子どもに奇跡が起こせるなら、どの子にも平均100種類の魔法の授業を経験させてあげたい」(p213)そんな思いに駆り立てられて、更なる展開を続けるであろう本会の活動が今後も益々発展していくことを願ってやまない。
――書評ここまで(『教職研修』教育開発研究所刊、再掲)
最先端テクノロジーが学校にあった映像の世紀のように今の学校を魅力的にするためには、魔法が必要だという。いや、それだけでなく今の時代そのものが魔法の時代だから、そういう時代を生きていける子どもたちを育てなければならないという。そもそも新しいことを学ぶこと自体が魅力的な営みのはず。きっと、日本料理のように「素材を生かす」「素材のうまみを引き出す」ようなデザインが求められている、ということなのだろう。奇をてらうことではなく、学ぶ中身の本質にどう触れさせるのか、それが設計課題の中核になくてはならない。ARCSモデルでいえば、「注意」ではなくそれ以外の側面から迫ることになる。
この書籍に触発されて、「奇跡を呼ぶ魔法あるいは錬金術としてのインストラクショナルデザイン」という学会発表をまとめた。学会発表としてはかなり「怪しい」タイトルになった。9月札幌で開催される教育システム情報学会全国大会でお披露目したら、予稿集の原稿を公開する予定ですので、乞うご期待。
(ヒゲ講師記す)