この本の編者である金井壽宏氏は経営学者、楠見 孝は認知心理学者であり、多様な仕事の世界における実践知を踏まえ、それぞれの道において達人になるための熟達化のプロセスを解明し説明しようとするものである。本書では、人が初心者・一人前・中堅者・熟達者になる熟達化のメカニズムについて述べつつ、営業職、管理職、IT技術者、教師、看護師デザイナー、芸舞妓、芸術家等、具体的な職業を取り上げ、その知的な成長について、現場の知の獲得と熟達化の様子を説明している。私が携わってきた看護師教育においても、暗黙知を含む実践知の獲得が、熟達の重要な鍵を握るという点で、本書に興味をもったのである。
本書が例示している職業の中でも特に、看護師と同じく人を相手にする「芸舞妓」の例に興味をもった。その理由は、看護分野がそうであるように、芸舞妓という伝統芸能の分野は、「背中を見て覚えろ」的な、さぞかしKKD(経験と勘と度胸)的な世界であろうと想像したためである。しかし読み進めてみると、実際には実践知を獲得し成長するためのシステマティックな人財育成体制が伝統的に形成されていることに非常に驚いた。その具体を紹介すると、芸舞妓に必要な実践能力である「座持ち」は、(1) 伝統文化産業らしい基礎技能(芸事の技能)(2) 芸舞妓らしい立居振る舞いの上品さ(京言葉等)(3) 即興性(顧客の要望や場に応じて(1) (2)の能力を発揮できる反応のよさ)の3つの要素が求められる。この「座持ち」の能力を身につけるために、年間1000回近くなるお座敷での実践を通じて、置屋のお母さん、先輩であるお姉さん、座敷を調整するお茶屋のお母さんというそれぞれの立場から、日々チェックを受け、さらに指摘した事項が修正されたかどうかフィードバックを受けるという様々な立場、組織と連携されたOJTが日常的に機能している。妹分の育成を任されたお姉さんは、自分がもつ実践知を言語化するという行為を通じて、その知を深化させる。さらにこのOJT機能には、一見さんお断りの中通いの顧客という立場からも、自分が享受するサービスの向上という観点から、芸舞妓の未熟な点を指摘して育てるという体制がある。
以上のような芸舞妓の伝統的な人材育成システムは、ID的要素を十分に押さえていることに驚かされる。IDの第一原理である(1) 現実的な問題(芸舞妓としての実践)(2) 知識の総動員(芸事等の基礎教育での学びを披露)(3) 例示(稽古場やお座敷で他の人の指導・芸を見て学ぶ)(4) 応用(稽古場での練習)(5) 統合(お座敷での披露)というステップを踏み成長する場であり、実践知継承の実践コミュニティだといえる。このように、他分野の実践知の内容や獲得のプロセス、その体制等を知ることによって、自身の分野の体制整備のヒントになるという点で役に立つと感じた。看護分野でも、芸舞妓のお姉さん役割と類似するプリセプターシップ制度等が導入されてはいるものの、十分機能しているとはいえない状況が多々ある。芸舞妓の世界においても、お姉さん役割が妹を育てるのは、時間と責任の負担は多いが金銭的報酬はなく、ともすると自分のライバルを育てることになるというシビアな中でも機能しているという点では、置屋のお母さんとの疑似親子関係や疑似姉妹関係にある人間関係の基盤や、伝統芸能の継承等を含むモチベーション等を考慮した人材育成体制の設計が重要であることに気づかされる。本書は人の熟達化という観点を基盤にしつつ、心理学的観点からのモチベーションや人と人とのコミュニケーションの中での学びとしての人間関係論的な観点の重要性についても触れているという点で、人材育成体制の設計におけるヒントが満載なのである。
(熊本大学大学院教授システム学専攻 博士後期課程 菊内由貴)