タイトルをみて、ドキッとした人も多いのではないでしょうか。私が書店で初めてこの本を見かけたとき、同時に帯に書かれた「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」という言葉が目に飛び込んできて、自分の痛いところを突かれているなと、その場をそっと通り過ぎました。しかし数日後、改めてこの本を見かけたときに、もう一つの私の痛いところ(且つ、研究としての私の関心領域の一つ)である「リスキリング」のヒントになるかもと思い、思い切って読み始めることにしました。
いわゆる「自己啓発本」かと思いきや、そうではありません。目次を見ると、「労働と本を読むこと」との関係の変遷が、明治時代から2010年代までを9つの時代にわけ、その当時に流行った書籍の紹介とともに、丁寧に描かれています。見方を変えれば、企業の労務管理・人的資源管理の観点での経営学、社会階層の観点での社会学、それぞれの時代の読書文化に関しての人文科学を広くカバーした人材育成の専門書の一つといえるかもしれません。
本の著者は、本が好きで文学部に進学し、IT会社に勤務したものの本が読めなくなっていることに気づき、会社勤めを辞めて、文芸評論家に転身されたそうなのですが、随所に、本を読むということに対する熱い想いが散りばめられています。
各時代における「本を読むこと」の位置づけと、労働に関連して読まれていた本の種類については、ぜひ本書を手に取って読んでいただければと思いますが、私が特に印象に残ったのは、以下の3つです。
一つは、1990年代を境に自己啓発書で描かれる内容が変わったという点です。自己啓発書が、内面の在り方(態度)から、具体的な行動を示すものに変化したことを、以下のように記しています。
自己啓発書の原点として明治時代に流行した『西国立志論』を紹介したり、1970年代のサラリーマンに読まれた司馬遼太郎の小説を紹介した。それらと90年代の自己啓発書と最も異なるのは、同じ自己啓発的な内容ではあれどそのプロセスが「心構え」や「姿勢」「知識」といった<内面>の在り方を授けることに終始していたことだ。たとえば偉人の人生を紹介することで、その生きる姿勢を学ぶ。そこに<行動>プロセスは存在しない。しかし90年代の自己啓発書は、読んだ後、読者が何をすべきなのか、取るべき<行動>を明示する。(p170)
二つ目は、読書はノイズであるという点です。
90年代以降の自己啓発書は、ノイズ(他者や歴史や社会の文脈)が除去されています。その背景には、人々が現代の労働市場に適合するには、自分がコントロールできる行動の変革が求められている点にあります。その結果、(自己啓発書以外の)読書が「労働のノイズ」になったと、著者は述べています。
最後は、知識と情報の差異(p206)についてです。著者は、「情報」=知りたいこと、「知識」=ノイズ+知りたいことであると整理し、読書はできなくても、インターネットを見ることができるのは「ノイズなく、欲しい情報を得られること」によるものだからと説明しています。
という話を、10数年ぶりに会った大学院の同期に話していたところ、「でも、仕事を進めるうえではノイズも大事なんじゃないの?」と言われました。ノイズは、IDの学習の出入口を見極め、方略を考えるうえで重要な情報の一つです。そのことに気付かなかった自分にヒヤッとするとともに、本を読んで語りあうことの大切さを改めて痛感しました。こうやってノイズとうまく付き合い、使いこなすことが、これからの学びや、学びの支援を考えるうえで、とても重要なことなのかもしれません。
※「ノイズ」や「働きながら本を読むコツ」について詳しく知りたい方はこちらもどうぞ。
PIVOT TALK 三宅香帆 社会人になると本が読めなくなる
https://pivotmedia.co.jp/movie/11705
(熊本大学大学院教授システム学専攻 博士後期課程修了 石田百合子)