ヒゲ講師はこの7月、二度連続して訪中した。最初は第7回中日教育工学研究フォーラムへの参加。JSET会長として日本のICT教育の現状とJSETが果たしてきた役割について講演した。中日フォーラムはJSETと中国教育技術協会(CAET)が共催して隔年で開いている合同研究会。前回(第6回)は一昨年、関西大学での開催で(その時は日中フォーラムという名称であった:主催国を先に持ってくる中国式の命名法)ので15年間続いているイベントである(途中、二国間のごたごたで1年開催が延期されたことがあった)。
日本から参加した研究者は15名であったのに対して、中国側の参加者は会場校の学生も含めて300人程度もいただろうか。全員で半円形のひな壇に乗って集合写真を撮るのがとても大変だったが、熱心に聞いてくれる人がたくさんいるのは励みになる。このフォーラムの公式言語は日本語と中国語と英語。英語セッションだけは直接のやり取りになるが、日本語と中国語の発表には両国語が操れる日本在住の中国人留学生や中国で日本語を教えている研究者などの通訳頼みになる。それでも漢字を共有している両国は特別な関係であり、それを再確認するこのイベントは有意義だと思った。
せっかく中国に行くのだから、しかも今回のホストは西安より北西に位置する銀川市の寧夏大学。フォーラムが終わったらオプショナルツアーとして周囲を散策した。人気が少ない人工的な都市に乱立する建設中の高層アパート群。幅50メートルもある巨大な階段を5階分ほど上がった展望台の両脇にある小高い丘は、都市開発時のゴミを埋め立てて造ったものだという。
モンゴル自治区に近いこの都市にどんな計画のもとに住宅整備を進めているのだろうか。ツアーで借り上げたマイクロバスには社内撮影用の監視カメラが複数台ついていて、ドライブレコーダーの記録とともに衛星システムに常時データが送られて当局の監視下にあると聞き、妄想が膨らんだ。国道の至る所にあるピカピカ光っている監視カメラは全部クラウド上で連動しているとのこと。スピード違反は即時取り締まりの対象となるので、どの車も制限速度を守って走行していた。
二度目の訪中は、その翌週深センで開催された国際会議ICOME。中国開放経済の象徴である深センは、香港から高速鉄道で結ばれたばかりで、香港西九龍駅から深セン北駅までの所要時間はたった17分(乗車前の出入国手続きにはその何倍もの時間が必要)。深センからは中国全土に高速鉄道網が整備されている。ICOMEのホストは中国南方科学技術大学。広大でまだ拡大中の敷地に世界中の頭脳を誘致して、最先端の教育研究が展開している。
ICOMEは日韓合同研究会として17年前に始まったこじんまりとした研究会であるが、あとから加わった中国開催の時だけえらく派手で大規模になる。公式言語は英語だが、主催者が中国語と英語の同時通訳を準備して中国語で挨拶や招待講演をしても、文句は言いにくい。日中(中日)だけの時は通訳付きでよいが、他の国が加わると、やっぱり英語になるのが自然だ。若い人ほど英語が操れるが、挨拶や基調講演をするような年配者には英語が苦手な人の割合が高い。南方科技大も深センにキャンパスを構えている北京大学も精華大学も、英語で教育しているという。ここにも急速に変わりつつある中国が垣間見られた。
謎が多い存在の中国であるが、今後どのように変貌を遂げていくのだろうか。楽しみでもあり、目が離せないと感じた。西安で安宿に一泊した際、空港の案内所でも安宿のフロントでもDo you speak English?と聞かれたので、すごい、英語が通じるんだ、と思ったら、スマホに表示された英語を見せられた。翻訳アプリが外国人とのコミュニケーションを支えていた。銀川市内の生鮮食料品市場では、どの店にもQRコードを書いた紙がぶら下がっていて、キャッシュレスが当たり前になっていたが、香港の庶民が通う食堂では英語が通じず香港ドルキャッシュで支払った。テクノロジーに支えられて言語の壁がなくなると、庶民の間でもさらに変化が加速されるのだろうか。
深センはここ数年で、治安がとてもよくなった、と深セン在住の日本人は言う。その理由は何か、と尋ねると、「それは庶民が圧倒的に豊かになったからだ」という答えが返ってきた。強くなければ生きていけない、戦後日本のような時期が終わろうとしている、あるいはすでに終わったのだろうか。
中国の勢いを感じ、謎が深まった二度の訪中であった。
(ヒゲ講師記す)