鈴木克明(2006a)「(エッセイ2006)岩手から熊本へ? それとも土地なき電子空間へ?」『視聴覚教育』20067月号原稿



(エッセイ2006)岩手から熊本へ? それとも土地なき電子空間へ?


熊本大学 大学院社会文化科学研究科 教授システム学専攻教授 鈴木克明


平成17年は私にとって、激動の年であった。その原因は2つある。ひとつは、放送大学大学院で新設科目「人間情報科学とeラーニング」を担当し、その準備に当たったこと。もうひとつは、熊本大学にeラーニング専門家養成のための大学院「教授システム学専攻(修士課程)」をスタートさせる準備をし、職場を変わったこと。いずれも私の人生の一大イベントであり、二つが同時進行で生起したため、まさに激動の年となった。

放送大学大学院科目「人間情報科学とeラーニング(06)」は、平成18年4月に放送がスタートした新番組である。開始年(2006年)を示す(06)がタイトルにつき、向こう4年間開講されることになる。早稲田大学の野嶋栄一郎先生にお誘いを受け、メディア教育開発センターの吉田文先生と3人で「主任講師」を分担している。私の担当回は4回あり(第5回〜第8回)、そのタイトルは次のとおり。

・インストラクショナルデザイン(ID)とは何か
・システム的アプローチと学習心理学に基づくID
・自己管理学習を支える構造化技法と学習者制御
・eラーニングにおける学習者中心設計とIDの今後

この4回で、IDの知見がeラーニングの効果・効率・魅力を高めるために有効であることを伝えるためにはどうしたらよいかを、あれこれ考えた。幸運なことに、海外取材のチャンスが与えられた。6月にディレクターとカメラクルーをしたがえてIDの巨匠を訪ねてインタビューをし、貴重な映像を番組で紹介できることになった。インタビューした巨匠は次の方々。夢のような顔ぶれである。是非ご覧いただきたく、ご案内します。

・M.D.メリル:1970年代にCDT(画面構成理論)をTICCITプロジェクトで提唱。
・ドナルド カークパトリック:評価の4レベル(反応・学習・行動・結果)の提唱者。
・C.M.ライゲルース:ID理論を集大成した名著(通称グリーンブックI、II)の編集者。
・J.M.ケラー:動機づけ設計のためのIDモデル(ARCSモデル)の提唱者。
・W.W.ウェージャー:ガニェの学習階層分析技法を拡張した教材構造化技法の提唱者。
・R.A.リーサー:IDの事情通。米国標準の教科書「IDTのトレンドと課題」の編者。
・R.C.シャンク:ゴールベースシナリオ(GBS)理論を提唱したAIからの転身組。

二つ目の出来事は、熊本大学への転職だった。熊本大学では、教育の質を向上させたくてeラーニングを始めた。自己流でさまざま試してきたが、もう一歩進みたいと思い、教育の専門家を探していた。ところが、日本には大学教育を専門にしている人は稀有であるし、eラーニングを教育の立場からデザインできる人もあまりいない。それは日本の教育学部では小中高と社会教育の領域でしか教員養成をしていないし、eラーニングの専門家を養成しているカリキュラムも存在しない。それならば、熊本大学でeラーニング専門家養成の大学院を作ってはどうか、ということになった。ターゲットは多忙な社会人だし、eラーニング専門家養成をeラーニングで行える大学院にしたい。「ついては、先生に是非、力を貸して欲しい」

なんと、私がやりたいと思っていたことがすべてお膳立てされているではないか。急な話だし、何よりも岩手の学生諸君に迷惑が及ぶ。しかし、これは是非ともチャレンジしてみたい、またとないチャンスではないか。悩みはしたが、決断にはそれほど時間は要しなかった。

文科省への申請に前後して、幾度となく熊本を訪れた。カリキュラム案の整合性を向上させるために前後関係(前提科目条件)や開講時期を調整し、シラバス案(とくに単位取得条件の事前公表)を議論し、修了生に求めるコンピテンシーリスト(職務遂行能力表)とともに公表した(http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/)。広報のためのシンポジウムを開催し、入試の方式を議論し、入試の実施・合格者の決定をした。

まさに、入口と出口の明確化のために、ID的なアプローチを「IDを中核とした」修士課程の準備自身に応用したことになる。100%インターネット上で学習が進められる大学院といううたい文句でスタートさせる大学院だから、オリエンテーションもオンライン科目として準備し、実施した。平成18年4月、第1期生15名と科目等履修生20名とともに新しい専攻「教授システム学専攻(修士課程)」がスタートした。

スタート以来、「講義のない生活」に慣れるのに苦労している。現在、1年次前期において、教育学部卒業でない入学者のための科目「基盤的教育論」と必修科目「eラーニング概論」「インストラクショナルデザインI」を担当しているが、講義は一切ない。100%オンラインの大学院における日常的な教育活動は、すべてオンラインで展開するからである。

講義内容を整理して、インターネット上に参照可能な形に加工する(スタッフの力を借りて)。公開前に動作を確認し、公開後は主として電子掲示板上で展開される受講生とのやり取りにあたる。大学運営と教材作成スタッフとの打ち合わせ以外は、「別に熊本に住んでいなくても支障はない」という生活である。独学を支援するというテーマを掲げて研究を進めてきた小生にとって、まさに理想的な勤務環境になったわけではあるが、「講義のない生活」は、やはり淋しいものですね。

目下、さまざまな工夫をしていることは、受講生とどうやって直接会うか、という点である。オリエンテーションはネット上で実施したが、ガイダンスと称して4月のある土曜日の午後、熊本大学と東京サテライトオフィスをインターネットで結んで二元中継のセレモニーを行った。教員も1期生も2つの会場に分散し、半分ずつとは直接、残りとはテレビ会議システムを介して対面した。乾杯まで中継して幕を閉じたこのイベントの参加者は、会場ごとの懇親会に散った。

普段は顔を見ない交流のインターネット大学院であるからこそ、顔を知ること、直接会うことの持つ意味は大きい。研究会や全国大会に集まる際には、「熊大ナイト」を企画して大いに盛り上がろうと考えている。「講義のない生活」には変わりないが、受講者との本音のコミュニケーションができることを楽しみにしている。


profile
すずきかつあき
熊本大学 大学院社会文化科学研究科 教授システム学専攻 教授
国際基督教大学卒、米国フロリダ州立大学大学院修了(Ph.D:教授システム学)。東北学院大学、岩手県立大学を経て平成184月より現職。主な著書に「放送利用からの授業デザイナー入門」(日本放送教育協会)、「教材設計マニュアル」「教育工学を始めよう」(いずれも北大路書房)がある。