ソフトウエア工学研究財団(1996A)『感性社会に向けてのマルチメディア学習環境のシステム開発に関するフィージビリティスタディ報告書』 機械システム振興協会システム開発報告書7-F-?、分担執筆(第1章)

第1章 本研究の背景


1.1 ディベート能力開発と教育ディベート

1.1.1 ディベートとは


 ディベートとは、「あるテーマについて無作為に肯定側と否定側に分れ、同じ持ち時間で立論・尋問・反駁を行い、ジャッジが勝ち負けを宣する討論(広辞苑 第4版)」である。紀元前からの歴史を持つ欧米に対し、日本では英語による学生ディベートの伝統は古くからあるものの(松本、1990)、ディベートに対 する関心は近年まで高くなかった。ディベートの啓蒙書が出版され、企業でも学校でも積極的に取り入れようとする風潮が見られるようになったのは、国語辞典 では初めて「大辞林」(三省堂)が「ディベート」の語を収録した1988年頃からであるとされている(佐藤ら、1994)。

 ディベートは、論題提示に始まり、討論会におけるジャッジの判定におわる。北岡(1996)は、図1ー1に示す四つのプロセス全体を含む「広義のディ ベート」に対して、一般的にはディベートが第4ステップの討論会のみ(狭義のディベート)をイメージさせ、ディベートの本質を見誤らせていると指摘する。 討論会には肯定側も否定側も自分の立場からの主張をまとめた原稿(立論)を用意して臨むが、その原稿を用意するための資料・データの収集と分析(第2ス テップ)と論理の構築(第3ステップ)が、論文や企画書の作成にも応用可能な「知の創造技術」として重要であると強調している。

図1ー1 ディベートの四つのプロセス(北岡、1996、p. 49より引用) <挿入>

 第4ステップの討論会(ディベート試合ともいわれる)は、肯定側と否定側が平等に割り当てられた制限時間内で、立論(それぞれの立場を主張するためのプ ランやその理由づけなどの発表)、反対尋問(相手方の主張を崩すための質問)、反駁(相手の議論への反論と相手から攻撃された自論の再構築)を交互に行 う。肯定・否定のいずれの立場を分担するのかは、討論会の直前に決められる場合もあるし、あらかじめ準備段階から明らかにされる場合もある。どちらの場合 も、肯定・否定の両面から論理を整理し、データを準備して討論会に臨む必要がある。相手の出方を予測し、それに対する尋問を準備しておくことが討論会での 勝敗に大きく左右するからである。与えられた論題を肯定・否定の両面から分析し、主張を組み立て、反論を予想し、それに対する答えも用意する。討論会での 発表の説得性の他にも、高度な論理構成力が求められることになる。

1.1.2 ディベートの効用


 岡本(1992)は、その著書『授業ディベート入門』の冒頭で、ディベート形式によるディベートの説明を試みている。その中で、ディベートの特長として次の点を挙げている。単なる「話し合い」や「ディスカッション」とどこが違うのかが読み取れる。

 自分の意見とは無関係に「肯定」あるいは「否定」の立場を割り当てられるため、「人」と「論」を区別できる。その意見を「誰が言ったのか」ということよ りも「何を言ったのか」に集中でき、心理よりも論理に関心がもたれる。同一性が重んじられる日本でも、人格とは切り離して相手の意見を批判できる。

 第三者が勝ち負けを決定する「ゲーム」であるため、勝とうという一心から真剣勝負が生まれる。勝とうとすれば、全体と部分、抽象と具体、一般と特殊の間 を往復運動する思考が活発になる。自分と意見が相反する他者を説得しようとする過程において自己内討論が活発になり、論理的思考が訓練される。

 松本(1990)は、相手を負かすことがディベートの目的ではなく、「対立から真実を引き出すのがディベートの醍醐味(p. 21)」であると強調している。意識的に肯定・否定の立場の両面から「検証を重ね、議論を闘わせることにより、あるひとつの論題に対する理論的・理性的判 断を下す思考過程(p. 19)」とディベートの役割を捉えている。藤岡(1994)は、カトリック教会の「悪魔の代弁人(否定的な情報をあえて集めて反対意見を主張する役目)」 の知恵がディベートの精神であるとし、「ある主張にとって、それが対立する見解からの批判にさらされていることは、その主張の強さのあらわれであり、逆に 対立仮説の洗礼を受けない主張は本質的な弱さを含んでいる(p. 14)」と指摘している。北岡(1996)の言葉を借りれば、「ディベートは仮説と仮説の論争」であり、「意思決定のシミュレーション訓練」であり、「知 を創造するための方法論」である。「ディベートにタブーはない」のであり、「ディベートは、考えたくないことを考える」機会を提供する。

 ディベートを行うことにより、参加者には論理的思考が訓練され、それと同時に全体としては細かく検討を加えた意思決定が達成されることになる。教育の方 法であると同時に、企業運営の方法でもある。とくに「教育ディベート」という場合は、参加者の能力育成に視点が置かれ、まずディベートそのものの訓練 (ディベートを教える)を実施し、続いてディベートを重ねることで論理的思考力を育成し、同時に論題として取り上げたトピックスに対する参加者の知識を増 やすこと(ディベートで教える)に教育の目的がシフトしていくことになる。

1.1.3 学校における教育ディベート熱


 国際化や情報化への対応を迫られている学校教育では、国語科と社会科の教師たちを中心として、ディベート導入の動きが活発である。例えば、明治図書が 「教室ディベートの新時代シリーズ」として1994年より刊行中の書籍は10冊を数えているなど、ディベート関連の書籍が目白押しである。また、「授業研 究21」1995年10月の臨時増刊号では、「教室ディベートのよい論題わるい論題」が独占特集とされた。

 国語科では、「表現」を重視するようになった音声言語教育と複数の視点から文学作品を解釈する教材解釈の領域(論題例:俳句「雀らも海かけて飛べ吹き流 し」で風は海から吹いている)などでの導入が試みられており、例えば池田(1995)によって、30時間にわたるディベート学習の単元指導計画と30の論 題例が提案されている。

 社会科の教師も、民主主義の基礎は議論であるという観点から、また参加型授業として社会知識を生かすことや問題を多面的に見ることを学ばせる手段とし て、ディベートに関心を寄せている。杉浦・和井田(1994)は、「社会科の醍醐味は討論にあり(p. 6)」とし、教科書や授業に基づいて年間指導計画の中に位置づけた論題によるディベートと時事的でタイムリーな話題を取り上げるディベートについて、方法 論や授業記録を紹介している。また、「現代社会」や「政治経済」の教科書や資料集の中にも、ディベートを設定してあるものもあると報告している。吉水 (1995)は、「授業者がほとんど登場しない授業」を目指して、中高の社会科で生徒が燃えたテーマを列挙し社会科はディベート論題の宝庫と述べている。

 1996年1月には全国教室ディベート連盟が結成され、1996年8月に第1回ディベート甲子園の開催が予定されている(藤岡、1996)。日本の若い 世代にディベートの精神と技術(すなわち「議論の文化」)を普及させることを目的に、しなやかな頭脳と練り上げられた論理を競い合う「知の格闘技」「こと ばのスポーツ」としてディベートも若い情熱を燃やすにあたいするチャレンジング・ゲームであると呼びかけている。

 ディベート導入の推進者は、「これまでの教育が暗記中心の知識獲得型であり、問題解決型の欧米の教育には対抗できないとする危機感があってのこと」(佐 藤ら、1994、p.19)と分析する。生徒の主体性を奪い、思考力や表現力の育成を妨げてきた教師主導の一斉授業を打開する方策としての期待も高い。他 人の意見を聞き、考える喜びを与えるディベートの教育的意義として、佐藤ら(1994)は次の点を挙げている。

 (1)問題意識を持つ
 (2)情報収集・分析力がつく
 (3)論理的思考力を養う
 (4)傾聴する態度ができる
 (5)発表能力が向上する
 (6)討論のマナーとフェアプレーの精神を学ぶ
 (7)自分に自信をもつ


1.2 感性社会とディベート能力の重要性

1.2.1 マルチメディアと感性社会


 マルチメディアの技術的・経済的効果を、文化的・社会的文脈から明らかにしようと試みた西垣(1994)は、マルチメディアが「感性」に直接訴えかける点を重視する。コンピュータ技術と感性との「ミスマッチ」を次のように指摘している。

音や映像などを駆使するマルチメディアの特長は、従来のコンピュータ応用技術とちがって、理性というより感性に直接うったえかける点だ。それで「感性情報処理」というコトバが出てくるのである。
 けれども、論理機械であるコンピュータと感性とがそう簡単につながるはずはない。下手をすると、感覚情報 を単純に数値化するなど、感性を理性のもとに封じこめてしまう可能性もある。また一方、イメージを商品化し、感性を経済システムの中で暴走・空転させて、 批判的な理性を衰退させてしまう恐れもある。(西垣、1994、p.iii)

 コンピュータによって人間の感性を実現しようとするのではなく、人間の感性を高める手段としてマルチメディアを利用していくという方向性は重要である。 また、感性社会であるからこそ批判的な理性が重要であるという指摘は、批判的な理性を育てようとする教育ディベートの価値が感性社会において低くないこと を示唆している。

 西垣(1994)は、光ファイバー網とパソコンによって織り上げられる”電子共同体”は感性的なコミュニティであり、そこに参画することによって想像力 が豊かになっていくはずであるとする。ところが実際には、既成の陳腐なコードの大波が消費され続けていくだけ、という情けないありさまになると危惧し、そ の原因を情報発信のトレーニングを受けていないことにあると指摘している。

双方向メディアというのは、少なくとも現在のところ、まだお題目にすぎない。なぜなら、われわれはテレビによって、映像・音声を完全に受け身で消費する習慣になじんでしまっているからだ。
 半世紀近くつづいた習慣を変えるのは骨の折れることだ。おまけに、われわれの受けた教育は文字中心で、画 像や動画で情報発信をするトレーニングを受けていない。残念ながらわが国の一般大衆は、既存イメージの消費にあまんじ、怪物のように膨れ上がったスーパー スターの虚像を追い求める傾向をますます強めているのである。(西垣、1994、p.135)

 我々は、「感性」という言葉のイメージから、「受け取ること」を想起しやすい。感受性が豊かである、とか美を観賞するという場合、自分がつくってそれを 発信するという観点、共同体の積極的な参画者になるという役割を忘れがちである。しかし、マルチメディアが全ての人を情報の発信者にする技術であること を、学習環境の構築を試みるときに改めて思い起こす必要があると思われる。ここでも、与えられた論題について様々な角度からの情報を収集し、論理を組み立 てて主張するという発信型の訓練となる教育ディベートの有効性が確認できる。

 このようなマルチメディア環境のもとでの情報発信能力の重要性を指摘した西垣(1994)が、さらに、共同作業(グループワーク)が異質性を前提として いることを指摘しているのが興味深い。松本(1990)がディベートで目指すとしている統合された調和と、異質性を前提とした共同作業の接点が見いだせる からである。以下に、両方の主張を引用する。

一口でいえばそれ(グループウエア)は、「様々に異なる意見・主張をもった個人がグ ループで共同作業するとき、互いの食い違いを調整し、ベストの意見を民主的に選択する」ためのツールなのだ。われわれはグループワークというとすぐ、「三 人よれば文殊の知恵(グループワークによって一人一人の力を加えた以上の力が出る)」を思い浮かべる。だがこれはお互いの同質性や共通理解を前提とし、グ ループワークから得られる利益も共同体に属する場合の話だ。個々の異質性を前提とし、個々が平等の成功チャンスをもつという社会では通用しない。当然、ア イディアの源泉はあくまでも個人であり、それぞれの意見のなかでどれが最適であったかが問題となってくるわけだ。(西垣、1994、p.147)

ディベートは物事の両面を見る習慣を身に付けさせてくれる。つまり、おのずと他人の見解に対して寛容になれる。ディベートは相手を論破し、勝利を独り占めにするための論争ではない。より高次元の目標は「和」、つまり「統合された調和」である。(松本、1990、p.33)


1.2.2 感性とディベート


 論理的な組み立てと理性が強調されるディベートにおいても、感性を磨く可能性があることが指摘されている。その第一は、直接対話のコミュニケーションとしての側面、第二は、マルチメディア情報の付加による感性への影響である。

 ディベートが一方通行のプレゼンテーションではなく相手があることから、コミュニケーションにおける感性が重要となることが指摘されている。国語教師と して教育ディベートを指導する佐藤ら(1994)は、次のように述べている。「一般的にいって、日本人の話し方は外国人に比べて表情に乏しい。聞き手の目 をよく見ないで話す人もいる。目くばせ、顔の表情、身振りによる非言語的コミュニケーションは、言葉に劣らず(いや時にはそれ以上に)大切であ る。(p.84-85)」

 松本(1990)は、「情と知を秤にかけるとディベートではロジックが重くなる。(p.164)」との立場をとる一方で、冷たいロゴス(知)といえども パトス(情)でくるめば温かくなる。パトスを侮ってはならないと説く。「ロジック(論理)は万能ではない。しかし、泣き落としも万能ではない。「情」に 「理」が加わってこそ説得力も増す(p.32)」と主張する。さらに、パトスを越えるディベーターの雰囲気としてエトス(信頼感)の重要性を指摘し、 「ユーモアやジョークによる切り返しなどの即興性を私が高く評価するのも、エトスがディベーターの余裕と深く関わっているからである(p.167)」とす る。松本の言うパトスもエトスも、ともに感性に関わる問題である。冷たい論理同士の戦いと受け取られやすいディベートにも、感性が深く関わってくる。

 話し言葉によるコミュニケーションを主としたディベートの中にも、マルチメディア情報を活用した事例がある。マルチメディア情報を活用することで、感性 にも影響が及ぶ。模造紙を使って立論の骨格を提示し、相手の提示した模造紙を見ながら論争をする方式を採用している北岡(1996)は、「同じ資料やデー タでも、表現力のある人は見事に図表化して説得する(p.89)」として、絵心やセンスが説得力を増すことに役立つと指摘している。さらに、外国人労働者 問題や米自由化問題を扱った中学生の事例では、自家で働く外国人労働者や近所の米屋さんへのインタビューを試み、その録音テープを立論で再生することで論 点を具体化したことが報告されている(佐藤ら、1994)。

 ディベートにおいてマルチメディア情報がより手軽に入手できるようになれば、その組み合わせ方や活用方法にセンスが要求される。これまでのディベートに おいては、話し言葉が中心であり、説得的コミュニケーションの技法も「話し方」に重点が置かれてきた。ディベートにおけるマルチメディア情報の活用法とそ の影響についての研究は、今後の展開が待たれるところである。

1.3 マルチメディア学習環境におけるディベート

   〜コンピュータとネットワークによるディベート支援〜

 コンピュータとネットワークによるディベート支援は、図1ー1の資料の収集・分析の段階、論理の構築の段階、そしてディベート試合の段階それぞれに考え られる。ここでは、これまでのディベート実践で行われた事例を紹介するとともに、実際にはコンピュータは用いていなくてもコンピュータ化が可能であると思 われる事例も検討する。

1.3.1 資料の収集・分析でのカード型データベースソフトウェア利用の可能性


 資料の収集・分析の段階では、収集した資料を整理するためにカードやファイルを用いた実践が報告されている。例えば、中学3年生の実践(佐藤ら、1994)では、収集した資料は、グループに1冊ずつファイルを与え(肯定派ー緑、否定派ー赤)散逸しないように指導した。

 アメリカの代表的なディベート教育のテキストでも、論拠を整理するために情報カードの利用を提唱している(Richards & Rickett, 1995、13章)。瞬時に欲しい論拠を探せるようにすればよいのだから、カードが10ー15枚程度であるならば肯定側を右ポケットに、否定側を左ポケッ トに入れて試合に臨めばよいとしている。それ以上の情報を扱うのであれば、肯定用にはA(Affirmative)、否定側にはN(Negative)で 始まる整理番号を付けて、立論の構成にしたがった分類方法を用いることを提唱している。

 資料の収集・分析のうちで最も難しいとされるのは、討論会での反対尋問への対策である。上條(1995a)は、立論が「原稿を用意したスピーチ」である のに対して、尋問や反駁は即興のスピーチを要求する、カードは即興のスピーチに有効であると指摘している。立論の構成に忙しく、相手への尋問が用意できな かったり、また相手からの尋問を予想してそれへの解答を準備できないと、かみ合う議論は展開できない。池田(1995)の実践では、尋問カード(図1ー 2)を10枚程度つくらせて、相手が認めたくないことを認めさせるような尋問のステップを考え、また対戦中は次のように用いるように指導している。
 1)見出しの一行が見えるように立論の順番に重ねて机の左側に並べる。
 2)相手の立論を聞きながら、予測が的中したカードを抜き出す。
 3)順番に右側に並べて、反対尋問で使う。

図1ー2 尋問カード 池田(1995)p. 66より引用 <挿入>

 上記の事例は全て、コンピュータを活用したものではなく、紙のカードを用いての実践ではあるが、検索などの効率化を考えると、カード型データベースの利 用に発展する余地があると思われる。限られた時間で効率的に情報を収集し、それを臨機応変に活用できるように準備することは、ディベートの質を高めるため の重要な条件である。一般的な意味において情報の整理を手助けするカード型データベースは、ディベートの中にも用いられていくであろう。

1.3.2 立論構成におけるアイディアプロセッサ利用の可能性


 論理の構築の段階では、収集したデータをもとに、立論の構成に向かって主張を構造化することが求められる。資料の収集段階ではカードを用いる工夫が数多 くの実践例で見られたが、立論構成に向けた構造化への工夫は、あらかじめ流れが決められている立論の「ディベートストーリーを組む」(北岡、1996)と いった系列化を土台としたものしか見られなかった。

 唯一の例外として、西部(1996)が、教室ディベート研究会が「リンクマップ」と称する図式化の方法について紹介している。大きな紙の中央に書かれた 論題のキーワードを中心に、「ポストイット」のような張り替え可能なカードに書かれたアイディアを配置していく。最終的なメリット・デメリットのような カードは周辺部に、それに至るプロセルは中間に貼り、キーワードからのつながりをつけていくとしている。リンクマップを作成することで次に得たい情報を見 つけることができること、また、リンクマップに修正・加筆することで情報を蓄積・整理することが容易になることをその効用としている。このリンクマップ は、1995年8月に行なわれた日本初の中高生ディベートキャンプにおいて、東大弁論部OBの滝本哲史(東大法学部助手)が紹介したものとして、上條 (1995b)は次のように述べている。

論理を組み立てるには「言葉のつながり」を意識することが重要である。データからク レームに至るまでにはいくつかのワラントが並列的にあるいは直列的にー乾電池のつながりのようにーつながることが多い。これは図(リンクマップ)に書くと わかりやすい(上條、1995b、p. 66)。

 西部(1996)の論文では、図1ー3に示すようなリンクマップが例示されている。作業の説明では「ポストイット」を使っている一方で、図では、アイ ディアプロセッサ(発想支援ソフト)の印字結果と思えるものを用いている。コンピュータの使用が一般的でない現状からポストイットを使うことを前提として いると思われるが、この資料整理と立論構成の過程は、コンピュータで支援することができることは明らかである。有用性は予測されるものの、現時点ではディ ベートにアイディアプロセッサを用いた実例はない。

図1ー3 リンクマップの例 西部(1996)p.94より引用  <挿入>

1.3.3 資料収集のためのネットワーク利用


 教育ディベートでのコンピュータネットワーク利用でまず考えられるのが、論旨を組み立てるための情報収集に役立てることである。ディベート論題が提示さ れてからの限られた時間で論題の関連情報を収集し、肯定側・否定側それぞれの視点で主張の裏付けをとるためには、効率的な情報収集手段が不可欠である。

 ディベート関連の書籍の中には、パソコン通信を利用したデータベースの活用で、新聞記事と書籍情報の検索が効率的に行えることを紹介しているものがある (上條、1995a:松本・西部、1994など)。上條(1995a)は、切り抜きや縮刷版に比べてキーワード検索では限られた時間で論題にターゲットを 絞った情報収集が可能になること、また書籍情報は国会図書館にまで検索が及ぶことが心強い点を強調している。

 パソコン通信でのデータベース検索のほかにも、インターネット上に分散して公開されている関連情報の収集も大きな武器になることが予想される。キーワード検索のための仕組みも用意されているので、論題に関連した世界中の情報にアクセスすることが短時間で行える。

1.3.4 遠隔地ディベートのためのネットワーク利用


 ディベートのためのネットワーク利用の第二は、ディベート参加者が遠隔地に散在している場合に、ネットワークを介してディベート試合を行う利用法であ る。資料収集でのネットワーク利用とは異なり、通常対面して行われるディベート試合をネットワーク上で実施することには質的な変化が伴う。通常のディベー ト試合で重視される非言語的コミュニケーションが、現在のネットワーク環境では「文字」のみのやりとりに形を変えてしまうからである。将来、マルチメディ アに対応したネットワーク環境が一般的になれば、遠隔地にいることを意識しないで、ネットワークを用いながらも通常と変わらないディベート試合ができるよ うになるであろう。しかし、反面、「文字」のみのやりとりに限定されるからこそ期待できる教育的効果も存在すると思われる。

 パソコン通信を利用したディベート授業の試み(湯沢・小池・堀田、1995)には、「文字」に限定したときの質的変化が報告されていて興味深い。東京都 の2つの小学校を結んだこの学校間ディベート実践のユニークな点として、その場での同期的なやりとりの部分(チャット)と、それぞれが時間をかけて用意し た主張を非同期に送信し合う部分(メール交換)をディベートの進行に合わせて使い分けていることが指摘できる。立論はメールで送信し合い、それをあらかじ め読んで作戦を立ててから、チャット機能(小学生が話し合ってまとめた意見を教師がキー入力して交信)を用いて反対尋問をさせた。最後の最終弁論の交換に は再びメールを使っている。その結果、「ネット・ディベート」のメリットとして次の3点が報告されている。
 
1)話しことばによるディベートに文字を持ち込んだことで、その場で論破する臨場感などを重視する従来のディベートよりも「静的な盛り上がり」をみせた。チャットのログがそのまま残るので、学習記録として子どもが読んで振り返ることができた。
 2)文章として送信するまで学級内で議論できるので、議論が通常のディベートよりも深まった。
 3)地域性が異なる遠隔地の学校同士で共同学習が成立した。

 ノルウェイのオスロに本部を置く国際遠隔教育協会(International Council for Distance Education :ICDE)では、3年毎の第17回世界大会を1995年6月にイギリスのバーミンガムで開催した。その時に、会場に来られない会員向けにインターネット 上での参加を呼びかけた(http://gpu.srv.ualberta.ca/~tanderso/adi/deg/icde.htm)。ネットワー ク上での6件の活動が計画されたが、そのうちの1件にディベート形式が採用されている。「遠隔教育における学生同士、学生とと教師、学生とテキストの相互 作用は必要である(No interaction, No Education.)」をテーマに、次の日程(世界標準時)で肯定側または否定側にたった電子メールでの参加を呼びかけた。
 
 6月5日:肯定側立論
 6月6日:否定側立論
 6月7、8日:肯定側反駁
 6月9、10日:否定側反駁
 6月11日〜:まとめ

 その後の報告によれば、6月26日にセッションを閉じるまでに合計170通の電子メールが寄せられ、活発な議論が展開された(電子 メールのアーカイブは、http://gpu.srv.ualberta.ca/~tanderso/icde95/interaction_www/で 閲覧可能)。

参考文献

藤岡信勝(編)(1996)『教室ディベートへの挑戦(3)〜教室ディベートの新方式:ディベート甲子園に向けて〜』学事出版
池田修(1995)『中学校国語科ディベート授業入門』学事出版
「授業研究21:特集教室ディベートのよい論題わるい論題」1995年10月臨時増刊号、437、明治図書
上條晴夫(1995a)『ディベートに強くなる本〜これでディベート・ゲームがよくわかる〜』学事出版
上條晴夫(1995b)「熱き議論のうずの中で〜日本初!中高生ディベートキャンプ〜」藤岡信勝(編)『教室ディベートへの挑戦(2)』学事出版、p. 62-71
北岡俊明(1996)『ディベートの技術』PHPビジネス選書
松本道弘(1990)『やさしいディベート入門〜人生に勝つための知的技術〜』中経出版
松本道弘・西部直樹(1994)『実践・ディベート研修〜ロジック思考による能力開発〜』生産性出版
西部直樹(1996)「ディベート講座:ディベートに勝つ技法(3)論題の提示から議論の構築まで〜ビジネスマン向け入門書から〜」藤岡信勝(編)『教室ディベートへの挑戦(3)』学事出版、p. 90-95
西垣通(1994)『マルチメディア』岩波新書(赤339)
岡本明人(1992)『授業ディベート入門』明治図書(教育新書128)
Richards, J. R., & Rickett, C. S. (1995). Debating by doing: Developing effective devating skills. National Textbook Company: U.S.A.
佐藤喜久雄・田中美也子・尾崎俊明(1994)『中学・高校教師のための教室ディベート入門』創拓社
杉浦正和・和井田清司(編著)(1994)『生徒が変わるディベート術』国土社
吉水裕也(1995)『ディベートで変わる社会科授業』明治図書(教室ディベートの新時代5)
湯沢斉之・小池孝之・堀田龍也(1995)「小学校におけるパソコン通信を利用したディベート授業の実践〜チャット機能を利用したディベートの評価〜」『日本教育工学会第11回大会講演論文集』129-130