小シンポジウム5:学校教育とメディアリテラシー―戦後メディア教育の展開―『日本教育方法学会30周年記念大会発表要旨』 55 (1994)


学校教育改革運動としてのメディア教育
―放送教育とコンピュータ教育を例に―

                           

東北学院大学 鈴木克明



仙台市立松陵小学校の授業実践

第44回放送教育研究会全国大会が昨年10月仙台市に開催され、提案者はその指導にあたった。会場校の一つ仙台市立松陵小学校では6つの公開授業を提供し たが、その内容は放送教育研究の現状を反映したものであった。低学年では国語の番組を継続的に視聴させ、言語活動への意欲づけと課題把握をねらった。「ふ りかえりカード」を使い、自己評価と学習活動の方向づけを試みた。中学年では「はりきって体育」から難易度の異なる鉄棒技を扱う番組を3本セットで用い た。チームティーチング方式下での個々のめあてに応じた技のイメージ化と弱点克服に役立てる実践であった。高学年の社会科では、工場PRパンフレットづく りや江戸時代の調べ学習に一つの番組を繰り返し活用した。導入時の興味喚起として用いた番組を、他の資料と共に調べ学習のテーマに応じて部分的に再視聴さ せるコーナーを設け、必要に応じて使わせた。伝統的な(と言ってもある時期広く受け入れられただけであるが)放送教育の手法から見ると、放送教育も時代と ともにその方法論が見直され、先駆的な試みが実践されつつあることが読み取れる。

学校教育改革運動としての放送教育

かつて放送教育がその黎明期において伝統的な学校教育にカウンターパンチを与えようとした教育改革運動であったという指摘は、小学校から当たり前のものと して学校放送に接していた世代にとって新鮮な響きを持つ。即ち、過去形の知識を完璧に把握した教師によって予定調和的に伝達が行なわれている聖域を社会に 開き、現在進行形の情報を送り込むことで教師を子供と同じ受け手の位置に立たせ、知らないと赤裸々に言える教師像、知識量での優位性でなく問題解決能力で 子供をリードする教師像を追い求めていた。昭和30年代の「学年別編成」を堺に教師からの求めに応じて最大多数の最大幸福を考えざるを得なかった断突マス メディアとしての現場適合の論理を嘆き、マルチメディア時代にもたらされている低視聴率や相対的重要性の低下を改革運動再開への契機と見なす論には、コン ピュータ教育の今後を占う先見性を感じずにはいられない。

コンピュータ教育と学校改革

現在全国の中学校に導入が完了しようとしているコンピュータは、学校改革への道を開くのであろうか。放送教育は、有力なメディアとして学校教育に用いられ たがために、またビデオ機器の普及とともに録画利用に供され意外性が事前にそぎ落とされるに至って、学校改革運動としての勢いを失速させた。一方、コン ピュータ導入には放送にない抵抗感が存在すると言われているが、このことは、改革運動としての可能性を示唆している。

コンピュータの導入にはこれまでの授業の常識を覆す側面、すなわち教師の彼教育体験の欠如、制御困難性、個別学習、機械化、教師より優れた子供の適応性な どがあり、現在の教育システムを改善すること抜きにコンピュータ教育の発展はありえないとする見方がある。また、情報機器を授業における情報源の中核に据 えることで情報のゲートキーパーとしての教師の役割を見直し、教師による伝達モデルに立脚する現在の学校のシステムそのものを改変する試みにも、コン ピュータによる学校改革の可能性に対する期待感が伺われる。しかし、コンピュータ教育も方法論次第で、かつての放送教育のような現場への適合論理が働く可 能性を否定することは困難である。

メディア教育の目的は何か

異物を学校教育に持ち込むことの意味の一つは、現在の学校教育を意識化し、再点検するための契機とすることにある。伝統的な学校の姿や授業の方法論に固執 するあまりに方向性を見失っているのが学校教育の現状であるとするならば、メディア教育の学校改革運動としての側面を改めて問い直すことは少なからぬ意味 を持つのではないだろうか。